【エッセイ】母子星|シャンソン歌手宇佐美一生、モデル、司会もやっています。

宇佐美一生研究所
宇佐美一生研究所
母子星

母と私は絆が深かった。
38歳で解かったが私は私生児だった。24歳の結婚した時謄本を見ればわかるものを、私が子供の頃母は再婚していたので私は母の連れ子と思い疑わなかった。
たまたま姪っ子がつぶやいた一言に少し腹を立て、そういえば前にも他人に言われた事があるなあと頭をよぎった。それは私と同じ境遇の娘を持つ人だから少し同情してのことだったのだろう。
ある日母になんのきなしに聞いた。
鉄線の暖簾が揺れる向うで足を投げ出し洗濯物をたたんでいた。
「母さん さ・・僕の父さんって誰・・」と聞いた気がする。
そういえば時々電話で話してる母の声に嬉しく思ったものだった。
「あの子を産んどいてほんとに良かったよ・・」私は一緒に住んでくれる親孝行の末っ子を思って言っているのだと思っていた。
母が私を産んだ頃は、私のような子は産んで土の中に埋める事もあったらしい。
私をどうして生かそうと思ったのか。私は母から生を受けた。
上には兄姉が5人いる。その兄弟たちは私をどう思っていたのだろうか。子供の頃私を子守りしながらつねったり叩いたりしたのだろうか。
十代の頃、成り行きで中国の星占いを何回かしてもらった事がある。その度に言われたのがあなたは母との縁、母の星が身体に二つ備わっている、普通は一つか、無い人もいるのに。
連れ子のまま、炭鉱のボタ山の長屋からトタン屋根の飯場住まいと親にくっついて仕事の有る所へ流れ歩いた。土方衆の中で母は飯炊きをして隙間風、夏は西日の照り返しの4畳半一間で暮らした。
私は母が好きだったし自慢だった。
嫌だったのは小男の父親の存在だった。それも土方の。
不思議な事に養父と思っていない。私を育ててくれた紛れも無い父親だった。
人の家や生活と見比べるが一緒に暮らしているとそれがあたり前と受け入れている。
中学の授業参観日に母が仕事着のもんぺに、頭に被っていた手ぬぐいを手にして嬉しそうに後ろに立っていた。私も嬉しくて嬉しくて時々振り返った。お洒落をしているクラスの母親達より母は綺麗に見え母が自慢でならなかった。何より仕事を抜け出して覚えていて来てくれたのが嬉しかった。
その後みんなの前で母の事を先生が話された。「今日仕事の途中に来てくれたお母さんがいらっしゃいました」と。
高校受験も「中三時代」なる本の文通欄から八王子に住む女の子と知り合い、その子の担任の先生の家から受験し、新宿区内の高校に通うようになった。
親に連れられて放浪した十五までが、今度は一人で東京の街を放浪する事になる。
身も知らぬ都会で一人で暮らす淋しさより夢と自由に満ちあふれて弾んでいた。
母は何より一言も反対せず十五の少年を送り出してくれた。入学式も卒業式も黒の羽織を着て駆けつけて来てくれた。
毎月現金書留が届いた。
私が24で結婚した時、母を呼び寄せ上石神井での暮らしが始まった。3人が4人に成り一匹増えて、そして犬が代替わりして一匹と母と二人だけが残った。
私は店の経営から退き、中野の南台から都下の玉川学園に移り住んだ。転機の一つであったが、不安恐れより出会い出発希望に溢れてまだ若く41であった。
私は、親の仕事が無くなると故郷でない町を追われるように、リヤカーに積んだ荷物を押して駅まで行き、いつもと同じように知らない土地で、あたりまえのように生活が始まった。
母は84の、町内から敬老の祝を貰った二日後に死んだ。
前触れも無く、私が帰ったら母は湯船の汚物が浮ぶ中に半分沈んでいた。
半泣きしながら「ごめんねごめんね」と言いながらホースで引き揚げた母の身体を洗い流した。そばにいなくてごめんね、冷たい水でごめんねという思いながら・・。